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連載 ルポ 子どものQOLを支える
 

デジタル・ネイティブの育ち方を取材した『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』や日本初の民間小児ホスピス「TSURUMIこどもホスピス」を取材した『こどもホスピスの奇跡』で話題を呼んだノンフィクション作家の著者が子どものQOL向上で特筆すべき活動をしている施設への取材を通して、医療や福祉の在り方を問います(次回更新で過去の連載記事は読めなくなります)。

第6回 ジャパンハート
石井光太(作家)

1977年生まれ。アジアの障害のある物乞いを扱ったノンフィクション『物乞う仏陀』でデビュー。その後、国内外の貧困、病気、犯罪など多様なテーマで作品を多数発表。難病の子供のQOLをテーマにした『こどもホスピスの奇跡』で新潮ドキュメント賞を受賞。現代の若者の生きづらさを言葉から見つめた『ルポ 誰が国語力を殺すのか』、特別養子縁組制度を作った菊田昇医師の評伝小説『赤ちゃんをわが子として育てる方を望む』など。

「ジャパンハート」は、医療事業を主に手掛ける、日本発祥の国際NGOだ。

創設者で小児外科医の吉岡秀人が東南アジアのミャンマーで医療活動を1995年にはじめた。その後いったん日本に帰国し、2004年に立ち上げたのがジャパンハートであり、その後はミャンマーだけでなく、カンボジアや日本の被災地などに活動の幅を広げ、さらには孤児や障害者の支援など医療以外の分野にも取り組んできた。

これまで多くのメディアによってその活動が報じられているので、ジャパンハートの名前を耳にしたことのある人は多いだろう。私の周りにも、ボランティアスタッフとして働いた経験のある人も数人いる。

一般的に、ジャパンハートは〝国際医療NGO〟、〝災害支援団体〟のイメージが強いが、主要な活動の一つに、小児がんの子どもや家族のプライベートな時間を応援する「スマイルスマイルプロジェクト」がある。

そもそもジャパンハートの理念は、医療の届かないところに医療を届けることだ。医療の遅れた途上国、国内の僻地、災害現場などと同様に、「小児がんと闘う子どもたちの心」もそれに該当する。

スマイルスマイルプロジェクトが行っているのは、小児がんの子どもと家族に対して〝生涯深く心に残る、輝く記憶の時間〟をプレゼントすることである。闘病中の子どもは一時退院しても、気軽にどこかへ遊びに行き、家族と思い出作りができるわけではない。家族だけでは経済面の負担が大きかったり、人手が足りなかったり、行きたいと希望する場所の受け入れ体制が整っていなかったりすることがある。

そこでジャパンハートでは、医師や看護師など医療の専門知識を持ったスタッフたちが、彼らの希望を叶えるべくサポートをする。子どもが治療を受けている病院の職員と情報交換し、旅行先に協力を求め、医療に通じたスタッフが同行することで、彼らの夢の実現を後押しするのだ。

子どもが小児がんを治すために病院に入院し、つらい治療を受けるのは生きていくには仕方のないことだ。だが、それだけであれば、心が折れてしまったり、何のための治療かわからなくなったりするだろう。そんな子どもたちに半日でもいいから望む景色を見せてあげさえすれば、心が和み、闘病への意思をもう一度固めることができる。

親族にしても同様だ。過酷な治療を強いるだけ強いて、子どもを失えば、後に残るのは後悔の念だけだ。しかし、闘病の途中で子どもを病室から離し、希望する体験をさせてあげれば、「こんな喜びに満ちた思い出を作ることができた」と前向きに考えられるし、それが今後の人生を支えることになる。

現在は、類似の活動をする団体も増えてきたが、ジャパンハートがスマイルスマイルプロジェクトを始動した時期は必ずしもそうではなかった。なぜ、途上国や災害地での医療支援を主軸にしてきた彼らが、この活動に着手し、今なお継続しているのか。

理事長で小児外科医の吉岡春菜氏に話を聞いた。

大きなビジョンを抱く

石井 実は私は吉岡さんとほぼ同世代で、同じ頃に東南アジアに滞在していました。デビュー作は、アジア8カ国を巡り、路上で物乞いをしている病気や障害のある人たちと生活を共にした記録を描いた『物乞う仏陀』でした。

当時の東南アジアは、今以上に医療も福祉も教育もあらゆるものが遅れていました。どの国を訪れても、障害があったり、病気にかかっていたりする人たちが、路上に一日中座り込んで喜捨を求めていた。

なぜ、彼らは適切な医療を受けられないのだろう、なぜ最低限の生活すら保障されないのだろう、何を思って物乞いをしているのだろう。彼らと一緒に生活をすることで、作家という立場でそのことを世に伝えたいと思ったのが出発点でした。

この作品の取材時期は、ちょうどジャパンハートができて、海外での活動を本格化されていた頃と重なります。物書きと医療者といった立場は異なれど、きっと吉岡春菜さんも当時の東南アジアの置かれていた状況に日本とのギャップを感じ、医療支援の取り組みをなされたのだと思います。

吉岡さんは医学部生の時に、吉岡秀人さんと出会って卒業後結婚なさり、ミャンマーで活動をはじめたとお聞きしています。学生時代からNGOのような活動にご興味があったのですか。

吉岡 初めから海外で何か活動をしたいと考えて医者になったわけではありませんでした。吉岡秀人との出会いによって、目を向けさせられたという方が適切だと思います。

彼は私と出会う前からミャンマーで医療活動をしていたんですが、途上国の医者は1人ですべてをやらなければなりません。内科なら内科だけ、外科なら外科だけといったことは許されず、診療を受けにやってきた患者のみなさんを診て治療しなければならない。それで小児外科のことをきちんと勉強し直そうと考えて日本にもどって大学に籍を置いていた時に、学生だった私と出会ったのです。

吉岡秀人はすでにいろんな活動をしてきていたので、私にとって彼の話の内容はすごく刺激的でしたし、私の感覚とはまったく違っていて新鮮でした。それで少しずつ私自身も海外での活動に関心を膨らませていったというのが正直なところです。

石井 とはいえ、あの時代はNGOやNPOみたいなものが今ほど一般的ではありませんでしたし、東南アジアではネット環境もあまり整備されていませんでした。軍事政権のミャンマーは東南アジアの中でもっとも「遠い国」だった。にもかかわらず、それまで大学で普通に医者を目指していた20代前半の女性が、吉岡秀人さんのビジョンに共感するには、ちょっと高い壁があるように感じますが……。

吉岡 伏線みたいなものがあるとしたら、大学2年の旅行だと思います。私が通っていた川崎医科大学は、親が経営する病院の跡継ぎになることが決まっているような学生が多かったんです。入学する前から何科の医者になって、しばらく外で技術を磨いたら、実家の病院にもどって跡を継ぐという道筋が決まっていた。

一方、私の両親は医療とは関係のない勤め人でしたから、同級生が持っている医者としてのルートみたいなものがありませんでした。そうしたこともあって、医学部に入ったものの、その先の自分の姿があまりイメージできなかったのです。それで、病院の外側にある医療を見てみたいと思っていろいろと調べたところ、中村哲さんがやっていらしたペシャワール会の存在を知り、見学にいくことにしたのです。

石井 1990年代の終わり頃でしょうか。私も大学生の時にペシャワール会の活動を見に行ったことがあります。あの頃のペシャワール会は、すでにパキスタン、アフガニスタンで十数年の活動実績を持っていて、日本からボランティアを受け入れて、医療活動だけでなく、井戸掘りなどの事業も行っていました。吉岡さんが赴いたのはパキスタンのペシャワールにあった事務所ですか。

吉岡はい。ペシャワール会の活動を見て、私は中村哲さんの視野の広さみたいなものに感銘を受けました。中村哲さんは医者ではありますが、病気を治すということを最終目的にしていませんでした。あの方が持っていたのは、「アフガニスタンやパキスタンで貧しい暮らしをしている人みんなの幸せを実現したい」という願いだったと思います。

こうした理念のもとでは、中村さんにとって医療活動はそれを実現するための手段の一つでしかありませんでした。だから、現地の人のためにきれいな水が必要だと思えば、井戸を掘るし、用水路を作ろうともする。医療という手段のみにこだわっていたわけではなかったのです。

中村さんの姿は、私が抱いていた医者のイメージをいい意味で揺るがしてくれました。医者だから病気や怪我を治すだけが仕事というのではなく、大きな幸福のための一つの手段が医療であって、それ以外のことだって必要なら積極的にやっていいんだといった意識に変わった。

たぶん、それがあったから、吉岡秀人と出会った時に、彼の考え方に共感したし、私自身もそっちの方向へ意識が向いたのかもしれません。それで大学を卒業してから彼と結婚してミャンマーへ行き、子どもが生まれるまで現地で活動をしていたのです。

石井 中村さん、吉岡さんに限らず、優れた取り組みをされる方に共通するのはビジョンの広さですよね。今回の対談企画でお会いしている方々もそうなのですが、〝子どもの幸せ〟、〝家族の幸せ〟といった大きなビジョンを掲げた上で、自分の職種だとか、立場といったことに縛られず、目の前にある課題に取り組む方が多い気がします。それをやっていれば新たな課題が見つかるので、またすぐにそれにも取り組む。そうしたことのつみ重ねが大きな活動になっていくし、社会を変えていくことになるのではないでしょうか。

お子さんが2人お生まれになってからは、吉岡さんは国内に軸足を移されたと聞いていますが、ジャパンハートの活動にはかかわっていらしたんですよね。

吉岡 ミャンマーで活動していた頃に妊娠したこともあって、海外のプロジェクトは吉岡秀人に任せ、私は岡山の病院で勤務医をしながら二児の息子たちの子育てをしていました。吉岡秀人は日本と海外を行ったり来たりしていたのですが、息子が保育園に通うようになると、「どうしてうちのお父さんは家にいないの?」と言いだすようになりました。ミャンマーで仕事をしていると説明はしていましたが、幼い息子は外国の概念がないらしく、日本のどこかに「ミャンマー駅」というのがあって、そこへ新幹線に乗って働きに行っていっていると思っていたようです。

そうしたこともあって、私たちは仕事をしている姿を子どもたちに見せた方がいいのではないかと考えて、家族でミャンマーに渡ることにしました。2012年のことです。息子たちは現地の日本人学校に通わせ、私はそこで視覚障害関係のプロジェクトをやったり、日本人学校に頼まれて身体検査をしたりしていました。ミャンマーの日本人学校には校医がいなかったので、私がお手伝いしていたのです。

石井 2012年というと、東日本大震災の翌年です。ジャパンハートは、この震災の時も東北で支援活動をされていたと思いますが、吉岡さん自身かなりお忙しい時期ではなかったのですか。

吉岡 震災の直後、ジャパンハートとしては災害医療支援という形で現地に入り、避難所などでの健康チェックをやったりしていました。これより3年前の2008年5月にミャンマーではサイクロン「ナルギス」による大災害が起き、数万人以上の方が亡くなったのですが、ジャパンハートはこの時に現地で緊急医療活動をやっていたんです。そのノウハウの蓄積があったので、東日本大震災が起きた後の東北でもスムーズに活動することができました。

ただ、ジャパンハートは一時的な緊急医療活動だけでなく、小児科クリニックが不足していた宮城県石巻市に「ジャパンハートこども・内科クリニック」を開いて運営するなどしていたので、あの頃の私は日本とミャンマーを行ったり来たりして複数の活動に奔走していました。

石井 今回の対談のテーマである小児がんの子どもや家族に向けたスマイルスマイルプロジェクトが本格的に動き出したのも、ちょうどこのお忙しい頃だったようですね。

ある詩からプロジェクトはスタートした

吉岡 スマイルスマイルプロジェクトがスタートしたきっかけは、前川育さんという女性の方の体験でした。前川さんはうちの支援者だったので、これまでも会の活動に頻繁に参加してくれていました。

2008年だったと思うのですが、うちの総会に参加した彼女が、30年くらい前に4歳だった長男武文君を白血病で失った時の体験を話してくれたのです。当時は今よりずっと小児がんの死亡率が高く、治療法も十分ではありませんでした。それでおおよそ2年にわたってつらい治療をした末に、亡くなってしまったのです。

前川さんは武文君に大変な治療ばかりを強いて助けることができなかったことをとても後悔されていました。その時に彼女が書かれた詩が次です。

もしも息子が一週間だけこの世に帰ってきてくれたら
 大好きだったハンバーグを食べさせ、
 飛行機に乗ってディズニーランドへ、
 日が暮れるまでキャッチボール、
 そして最後の一日は、一日中抱っこさせて。

石井 この詩はまさに小児がんとQOLの問題がテーマとなっています。前川さんの胸には武文君のQOLを守ってあげられなかったことの後悔の念が30年にもわたって残っていたのでしょう。

吉岡 この詩を読んで突き動かされたのが吉岡秀人でした。彼には大学を卒業して一時期勤務医をやっていた時代があったのですが、その時に難病の子たちと向き合う経験をしていたそうです。診ていた患者さんの中には回復の見込みがなく、これ以上治療することが難しいという方もおり、彼はプライベートの時間をつかってそんな子を病院の外へ連れ出すお手伝いをしたことがありました。

その経験から、吉岡秀人は長らく「日本の病院が難病の子どもたちにできないことをジャパンハートでやりたい」と考えていました。それで詩と出会った時に、今なら前川さんのようなご家族の力になれるのではないかと思い立ったようです。すでにジャパンハートは体力のある組織になっていましたし、スタッフも大勢抱えていたので、実現可能だという計算があったのでしょう。

石井 スマイルスマイルプロジェクトでは、ジャパンハートに属する医療者が、病院と連携をしながら、子どもたちの旅行などに同行し、幸せな思い出を作れるようにするという取り組みをしています。最近こそ似たような活動をしている団体が少しずつ出てきていますが、あの頃はそこまでではなかったはず。そうした中で最初からうまく当事者のニーズをくみ取ってプロジェクトを進めていくことができたのでしょうか。

吉岡 最初は私ではなく、別の女性の医者が責任者になってスタートしていました。ただ、うちが旅費を全額負担していていたり、担当者が産休に入ったりしたことで、プロジェクトそのものを休止していた時期がありました。

私が責任者としてプロジェクトを再スタートさせたのは2014年のことです。前回の反省もあって、旅費の一部をご家族に負担していただくとか、協力企業をうまく巻き込むなど体制を変えました。

現在、プロジェクトの専属スタッフは5人、医者は私1人、看護師が4人います。これ以外に、ボランティアの登録が250人ぐらいいらっしゃいます。学生、主婦、当事者の方など本当に様々な方が手伝ってくださっています。

石井 専属スタッフの4名の看護師の方々は、どのような経緯でこのプロジェクトに参加されているのでしょう。

吉岡 カンボジアで長期活動していた方だとか、成人の救急をされていた方だとか、複数の病院や保育園で働いた経験のある方だとかです。大学病院で小児がんの子を看ていた方もいらっしゃって、彼女はこんなふうに話していました。

「今までは病院にいて子どもたちを送り出す側でした。でも、送り出された子を社会で受け入れる側になってみたかったんです」

病院に勤めていれば、どうしても子どもを外へ送り出す側に留まらざるをえません。子どもの人生の大半は病院の外にあるし、思い出作りも外で行うものなのに、病院の職員という立場ではそこにかかわるのが難しい。だからこそ、病院から出て、外で迎え入れる側になりたいと考えたようです。

石井 一時代前まで、病院側が患者を囲って外に出そうとしなかったり、レジャー施設の側が受け入れを拒否したりしたこともありました。最近はそうしたことは減ってきていると思いますが、活動する上で何か障壁となるものはありましたか。

吉岡 スマイルスマイルプロジェクトでは、ホームページを通して申し込みがあった場合、家族と面談して子どもの容態など細かなことを教えていただき、次に通院先の病院に連絡をして、医療面から見た現在の症状や外出時のリスクなどを説明してもらいます。医療業界でジャパンハートの名前がそこそこ知られるようになったおかげで、わずかな例外を除いて連携に大きな支障が生じることはありません。十数年の間に日本全国のすべての小児がん拠点病院とかかわった実績があるのも大きいでしょう。

私たちがお子さんを希望の場所に連れて行けると判断すれば、スケジュールを決めて専属スタッフが最低1名、他にボランティア数名が一つのチームになり、出発することになります。泊りがけの場合もあれば、日帰りの場合もあります。行き先は、東京ディズニーランド、人気歌手のコンサート、キッザニア、ヒーローショーなど様々です。こうした施設の方にも、事前に行くことを伝えておきます。

石井 きちんとしたレジャー施設は、事前に小児がんの子どもが行くと伝えておくと、専属のスタッフを用意してくれたり、特別なサービスをしてくれたりするようですね。たとえば、ある家族が小児がんの子をつれてアンパンマンミュージアムへ行ったところ、ショーの終了後に、その家族のためだけにアンパンマンが舞台に現れて、応援メッセージをくれたなんていうエピソードを聞いたことがあります。

吉岡 そのようなことはよくありますね。石井さんが『こどもホスピスの奇跡』で取り上げた大阪市立総合医療センターの原純一先生から、ある日こんなことを頼まれたことがあるんです。

「うちの病院に16歳の小児がんの女の子がいて、あるアイドルグループの大ファンで、コンサートのチケットに応募しているんです。今年も行きたがっていたけど、残念ながら2年連続で落ちてしまった。彼女はこれ以上の治療がかなり難しい容態になっているので、なんとかしてあげられないでしょうか」

当時、私はたまたまアイドルグループの所属事務所の方と面識があったので、ダメ元で頼んでみたんです。そしたら「わかりました」と二言返事でチケットを用意していただきました。私たち付き添いの分もすべてです。

コンサートは大阪城ホールで行われたんですが、会場に行ってみてさらにびっくりしました。満員なのに、車いすの女の子と家族を私たちが取り囲めるぶんのスペースを広く開けてもらっていただけでなく、医療機器の作動に必要な電源も確保してくれていたのです。主催者側のスタッフも付き添ってくれました。

当日、女の子はかなりしんどい状態で、意識はとぎれとぎれで、会場に到着するまでずっと目をつぶっていました。原先生からは「コンサートの途中で容態が変わる可能性も十分にある」と言われていたので、万が一の事態が起こることも覚悟していました。

でも、いざコンサートがはじまったら、驚いたことに彼女はパッと目を開いたのです。音楽が耳に届き、観客の盛り上がりを感じたのでしょう。コンサートにいることもちゃんと理解していて、ペンライトや団扇を振り、嬉しそうな表情をしていました。

コンサートが佳境に入ると、アイドルグループがゴンドラに乗って近づいてきて、彼女に手を振ってくれました。私たちが興奮して、『ねえ、〇〇君がすぐそこで手を振ってくれているよ!』と言うと、彼女も目を輝かしていました。

この体験は、女の子にとっても、家族にとっても掛け替えのないものになったはずです。残念ながら、彼女は病院にもどった途端に容態が悪くなり、間もなく集中治療室に入りました。先生方は励ますために、集中治療室でアイドルグループの曲を流すことにしたそうです。

結局、女の子は回復することはなく、コンサートツアーが終了した日に亡くなりました。関係者の方々の間からは、「ツアーが終わるのを見届けたんやな」という声が出たと聞いています。

石井 大勢の方々に支えられてコンサートへ行くという夢を実現したんですね。

吉岡 このエピソードに限らず、私たちがきちんと事情を話してお願いすれば、ほとんどの方が理解を示して力になってくれます。そういう人たちの力によって、私たちの活動が成り立っていると実感します。

企業参加型イベント

石井 スマイルスマイルプロジェクトでは、個別の要望に応えて、家族単位で思い出作りをすることの他に、数組の家族が参加できるイベントも開催しているようですね。

吉岡 招待イベントですね。こちらはスポンサーになっていただいている企業さんに協力してもらって、特定の場所へ遊びに行くという活動です。

最初は、私たちがすべて費用を負担して、病気の子や家族とキッザニアへ行くイベントを開催したんです。そしたら、うちを応援してくださっている企業さんが次々と連絡をくれて、今度同じことをやるならうちが協力すると名乗り出てくれたんです。

準備に相応の時間がかかるので、現在は2カ月に1回のペースで、年に6回行っています。1回につき、招待する家族は5、6組。これまで、ユニバーサルスタジオジャパン、ハウステンボス、はとバスツアーなどいろんなところへ行きました。

石井 企業側が手を上げてくれたということは、その費用を負担してくれるということですよね。

吉岡 そうです。大手製薬会社さん、社会貢献団体さん、たくさんの法人様が応援してくれています。最近は、費用の負担だけでなく、社員研修の一環として社員の方が手伝いに来られることもあります。

レジャー施設に病気の子や家族を連れて行き、お世話をするのって、人の気持ちを考えるとか、お客さんの目線でものを見るとか、たくさんの学びがありますよね。企業さんはそこに目をつけて社員研修にしているらしく、若い社員の方々が私たちと一緒にご家族の付き添いをしてくれるのです。

この取り組みはかなり好評で、企業さんからは「もっとたくさんやってほしい」という声もいただいています。ただ、うちとしても人が足りないとか、病院との相談など開催準備に時間がかかるといった課題もあって、すべてのニーズには対応できない状況にあります。

石井 企業がお金を出すだけでなく、人も出して、さらにそれによって人材育成をする。これは小児がんの社会的理解にもつながるでしょう。まさに理想的な活動だと言えるのではないでしょうか。

ところで少し話はズレるのですが、海外の医療にも詳しい吉岡さんにぜひお聞きしたいと思っていたことがあります。それは途上国の人たちにとってのQOLがどのようなものかということです。

日本でも小児のQOLが注目され、様々な活動が行われるようになったのは、ここ十数年のことです。それこそ20年前、30年前はそうしたことを正面切って発言する人すらほとんどいませんでした。

途上国、たとえばジャパンハートが活動しているミャンマーやカンボジアの医療は、日本と比べればまだまだ遅れている。それこそ20~30年くらい、地域によってはそれ以上遅れているかもしれません。だとしたら、あちらの人たちはQOLについてどう考えているのでしょうか。

吉岡 うちがかかわっている病院にも、小児がんのお子さんはいます。ただ、QOLの考え方は日本とはかなり異なるかもしれません。

たとえば、向こうで小児がんの子を持つ親に、「助かる確率は5割ほどですが、治療をつづけますか」と尋ねたことがあります。おそらく日本人であればほぼ全員が治療の継続を訴えるでしょう。でも、その人はこう言いました。

「なるべく苦しくないように逝かせてほしいです」

親の方が治療を諦めると言うのです。本当にいいのかとこちらが確認すると、次のように言われました。

「(小児がんの子が亡くなったら)もう1人産みますから」

ミャンマーやカンボジアでは、日本よりずっと死が近いところにありますので考え方がかなり違ってくるのです。

石井 これは、「命の選別」などと言われるものとは異なる話ですよね。現実問題として、途上国の貧しい地域では、小児がんの子が助かったところで、後遺症などを抱えて生きていくことが難しいという状況もありますし、家族がその日暮らしをしていれば、1人の子に深くかかわっているような余裕はないでしょう。

実際に私も、途上国の取材で障害のある子が生まれただけで、家庭が間に崩壊したケースを何度も目にしてきました。最新の医療によって、家庭が壊れてしまうことがある。そういう現実があるからこそ、家族における病気の子どもの命のあり方も、国によって違ってくるのでしょう。

吉岡 かといって、あの人たちが子どもを大切に思っていないというわけではないんですよね。これはミャンマーの話なのですが、町の中心地から6時間も離れた村に、ある男の子が住んでいました。彼は顔に腫瘍があったのですが、医療にアクセスできなかったせいで、腫瘍が大きくなって顔が変形してしまい、周りの人たちからはお化けみたいな扱いを受けていました。家族も困っていて、その子をどう扱っていいかわからなくなっていたようです。

うちのスタッフは、なんとかしてあげたいと毎日6時間かけて家を訪れ、できる限りの治療をしました。すると、家族も少しずつスタッフを信頼するようになり、その子との向き合い方も変わっていった。やがて子どもも含めて家族写真を撮るようになったほどでした。

最終的にその子は亡くなってしまったのですが、家にはみんなで撮った家族写真が飾られていたそうです。病気だから愛していないというのではなく、愛情を示せない状況があったり、示し方が異なっていたりすることがあるのだと思います。

石井 昔の日本におけるハンセン病なんかもそうですが、親が子どもとの向き合い方に困っていたり、時には突き放すような行為をしていたりしても、必ずしも嫌いになっているというわけではない。その人を取り巻く環境の中で、親の愛情だとか子どもの命のあり方を考えていかなければならないのでしょうね。

医療は手段であって目的ではない

石井 ここまでお話をお聞きして、最初の方にお聞かせいただいた中村哲さんのことを思い浮かべました。吉岡さんご自身も、中村さん同様に大きなビジョンを持って、手段を問わずに実践されている方なんだな、と。

吉岡 大学を卒業してミャンマーで働いた後、子どもが生まれて日本に帰国してしばらく勤務医をしていたことはすでにお話ししました。この時、私は自分のやっている仕事に違和感を覚えたんです。医者としてではなく、私が人としてやりたいと願っていることと違うという感覚がありました。

私がやりたいことって、目の前で困っている人が「生まれてきて良かった」と思ってくれることなんです。医療はそれを実現するための手段でしかない。それなら医者であったって、小児がんの子がディズニーランドに行きたいと思っていれば荷物持ちになって付き添うべきだし、ホテルに泊まりたいと思っていればバリアフリーのところを見つけて予約するべきでしょう。私がやりたかったのは、そういうことだったのです。

石井 スマイルスマイルプロジェクトは、まさにそうした取り組みの一つですよね。医者は医療だけ、看護師は看護だけ、理学療法士はリハビリだけとやっていたら、たしかに職業的な役割は果たせるかもしれませんが、全人的なところでその子を支えていることにはならない。まずは縦割りのような思考を捨てて、人と人の関係で向き合うことが必要なのでしょう。

ジャパンハートとして、今後はスマイルスマイルプロジェクトをどのように育てていくつもりでしょうか。

吉岡 何か大きな目標を掲げるより、必要だと感じることを淡々とやりつづけていくことが大切だと考えています。小児がんといっても、その子によって症状も家族構成も希望もバラバラです。私たちは子どもごと、家族ごとに向き合って、やるべきことをしっかりとやっていかなければなりません。

その上で、社会が小児がんの子どもや家族と接する機会を増やしていきたいと思っています。

石井 それは社会が小児がんを理解してもらうということですか。

吉岡 私たちの周りには、今も社会の無理解の中で苦しんでいる方々がいます。たとえば、あるお母様は、子どもがようやく退院して中学校に通わせようとしたら、学校側からこう言われたそうです。

「うちの学校は(病児に)耐性がないので、通学するのであれば保護者に付き添っていただきたいと思います」

お母様は仕方なく子どもと一緒に学校へ行ってずっと傍にいなければならなくなりました。

とはいえ、退院しているわけですから、子どもはそれなりに元気です。授業中は特にすることもないので、お母様は学校のガーデニングをしてすごしていたそうです。うつむいていても、目の前にきれいな花があるし、頭上から鳥のさえずりが聞こえるので、それが数少ない気晴らしなのだとおっしゃっていました。

医者の立場から言って、このお母様がここまで自分の時間を犠牲にして付き添う必要はないと思います。ちょっとした介護が必要なら、先生やクラスメイトでもできます。でも、先生方はそれがわからないから、お母様に不必要な付き添いを頼んでしまうのです。

石井 まさに無理解から引き起こされることですね。先ほどの企業研修の話ではありませんが、社会全体が接点を持てば、その中学生もお母様もずっと生きやすくなるはずです。

吉岡 スマイルスマイルプロジェクトの活動をしていて感じるのは、企業もボランティアの方もみなさん知るきっかけがあれば、本当にやさしくしてくれるということです。だからこそ、私たちとしてはこれまで以上に多くの方々に、小児がんの子と接する機会を作りたいと思っています。

石井 本当にそうだと思いますし、私自身ももっとかかわっていかなければと改めて感じさせていただきました。本日はありがとうございました。


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